(グローバル×福祉!!②からの続き)
ここまでグローバル「×福祉」で、異文化だけでなく、我々と同じように生活する「生活者」がみえてくる、という話をしてきました。
とはいえ(もちろん)、生活者だからすべて同じ、ということはありません。日本の児童養護施設ではみられない、ネパールのストリート・チルドレンの「なんでやねん!!」っていう瞬間はたくさんありました。例えば、支援施設に馴染んで生活していた元ストリート・チルドレンのアカシュ(12歳)。よく職業訓練を受けて自立する日のことを楽しそうに語ってくれていました。しかしまだまだ寒い2月のある日、サッカーをしている最中。忘れもしません。彼は突然逃げ出してカトマンドゥの雑踏に消えていきました。彼、施設での生活を拒否してストリート生活を希望して去っていったのです。アカシュだけではなく、ネパールではそういう子がたくさんいました。
日本の常識からすれば少なくとも施設の方が安全ですよね?ストリート生活を希望するって、どういうことでしょう。施設に問題があったのか。あるとすればどんな問題?また「希望する」というのは正しくなくてストリートの薬物などに、希望「させられて」いたのではないか・・。とにかく無数で、大きな「なんでやねん」。
でも、「×福祉」で基本は生活者がみえてくる。そこに変わりはありません。
異文化経験でみえてくる「異質性」、福祉という視点でみえてくる生活者としての「同質性」。それは簡単にいえば「ばらばらで、一緒」となりましょうか。
この「ばらばらで、一緒」という言葉。これは私の恩師の言葉です。ばらばらで、一緒。つまり、違いがある。しかし同時に同じ部分もある、ということ。
違うものでありながら、同時に同じものであるという他者へのまなざし。
言葉自体は単純なれど、紛争や排除など「違い」をめぐる争いが絶えない現代社会をおもうとき、この言葉の深さを感じます。
そしてグローバル×福祉のミッションのひとつは、そのありかたを「探求」することなのではないか、と最近思います。ばらばらで一緒、そんなことはどう可能なのか。みなさんどうですか。グローバル×福祉の探求を通して、人間社会をそうみることができたなら、どんなにエキサイティングでしょう。
ただしこのときのポイントは、グローバル×福祉、の答えは、学生ひとりひとりによって違うということです。いろいろな答えがあってよくて、それぞれがすべて正解。グローバル×福祉、つまり国際福祉という領域はそのように度量の広いものです。
グローバル×福祉のさきの、自身の質的な変化。それは経験してからのお楽しみ。本学でみなさん自身の答えを、自らの力でつかみとってください。自分の周りのありふれた世界がちょっと楽しくみえてくるでしょう。
みなさんはグローバル×福祉のさきに、なにをみますか。
世界に飛び込んだ人だけがみられる、なにか。
他ならぬ「私」の経験としての、なにか。
あるいは人生の核となるような、なにか。
このところ1年生が私の研究室を訪ねてくれるようになりました。学生とのやりとりがとても楽しく、幸せを感じています。
これをみて少しでも関心が生まれたら、気楽に研究室を訪ねてください。m(__)m