(グローバル×福祉①のつづき)
ネパールに行く飛行機に乗り込むとき、震えました。向こうには何のつながりもなかったからです。海外口座もなかったので手元にあるのは、持っていてはまずい額の現金とパスポート(それと、講義資料で国際福祉論のレジュメ)。いまではそんなことはできません。おすすめもしません(笑)。
いまなら「そこの学生、無謀なことはせず、まずネットで現地とのつながりをつくろうよ」と当然ながら声をかけますね(笑)。まあそんなこんなで当時は「後戻りはできない、自分の力だけが頼りだ」と(無駄に笑)震えたものです。
今思うと自分の力を試したかったのかな苦笑。とにかく若さの不思議さとエネルギーのやばさを思います笑。
そんな気持ちでいったネパールでまず待っていたこと。それは異文化の興奮です。いやあこれはもう経験した人だけがわかる興奮ですね。本当に面白かった。
見るものすべてが鮮やか。やりとりすべてが生き生きしている。香辛料と汗の匂い、カオス!?って感じの人混み。ぎゅうぎゅう詰めの乗り合いバス。そのバスに乗ってたらお母さんが自分の子どもを僕の膝の上に乗せてくる。「窮屈だからのせてあげてね」ととても自然なことのように。人が、近い!のんびり路上で眠る野良犬。あまり口に合わない食事(笑)、手で食べる習慣、でかい声の立ち話。やばいレベルの排気ガス・・。ぼっこぼこの道路。いちいち交渉しなければいけないタクシー。ぼったくられないかという緊張の一瞬。あげたらきりがないくらい、そりゃあもう「生きている」と感じる瞬間ばかりです。剥き出しの生。そのエネルギー。
これらはいわば「異文化経験」。大学生はこうした異文化に触れるだけでも、きっとかなり価値があります。ただ「×福祉」でみえてきたのは、そういう異文化経験のものとは少し性質が違いました。
少しすると日常がやってきます。アパートを借りながら、施設に向かい子どもたちと一緒に過ごす。夕方になったらいつもの道をバスで帰る。つまり非日常がどんどん日常になっていくわけですね。そのように生活が落ち着いてくると当然、最初にあった鮮やかさは少しずつ薄れてくる。風邪ひいたりお腹壊したり、そこでできた友達としょうもないけんかをしてみたり。
非日常が日常になってきてさらにまた時間がたつと、施設で過ごすストリート・チルドレンのこともまた違ってみえてくるようになりました。
それは平凡な日々を我々と同じように、その世界のなかで、その常識のなかで一所懸命生きる人々の姿です。当然のように、我々と同じように痛み、喜び笑い、悲しむ人たち。そういう人たちが、「×福祉」で、みえてきました。
正直にいうと、ストリート・チルドレンは当時の私にとって、好奇の対象でした。センセーショナルな報道の影響もありましたが、彼らは貧困に負けないスーパーキッズ、あるいは逆に誰かが手を差し伸べなければいけない犠牲者、とにかく何か驚くべきことがそこにある、そんな風に思っていたものです。しかし実際にいたのは、ただ自分と同じように痛み、喜び、悲しむ子どもたちでした。冗談をいって笑い、ご飯をたべて働き、寝て、けんかをすれば泣く。スーパーキッズでもなく、犠牲者でもない、ある意味では我々と変わらない生活者としての、子どもたち。僕と何も変わらないじゃないか、と思ったこともあります。環境がそうだったら、この子たちと同じように僕は選択するだろう、と。
そうすると、異文化経験のその先がみえてきます。福祉・・、よりよい状態を目指す?よりよい状態って何?それって世界共通?そこで生きる人の苦難を軽減する方法…。そこで生きる人の生活の苦しさってどんなものがあるの?等々。
途端に異文化経験の鮮やかさとは違うものが見えてくることが伝わるでしょうか。そうです、「×福祉」をかけると「(我々と同じような)生活者」がみえてきます。異文化経験でも学生の成長にとっては十分ですが、さらに福祉というレンズをかけることの意味は、そんなところにあるのかもしれません。
想いが熱すぎて収まりきらず、③を書くことにしました。苦笑
次も読んでくださると嬉しいですが、まずはここまで読んでいただきありがとうございました。
第3弾は、12月20日(月)にアップします。