こんにちは、教員の高田です。今、自分の研究調査のためにネパールのカトマンドゥに来ています。ネパールは南アジアの国で・・・とか文字で書いてもなかなか伝わりませんから、一枚、みる人にとってはどぎつい写真を紹介。それがこちら↓
はい、首都カトマンドゥの中心地にいた野良犬のドーベルマンです(汗)。友人と歩いているときに遭遇し、道の脇で他の犬とじゃれあっていました。ネパール滞在経験はそれなりにある私でも初めてのことだったのでさすがにたまげました。
これがネパールだ!と紹介すると偏見を生む恐れがあるので注意が必要ですが、日常の一コマではあります。これをみてみなさんどう感じますか。
まずは「ほうほう、野良犬のドーベルマン・・・やーばいでしょ!」「信じられない」ですかね。そのあと、自分を振り返って「日本に生まれてよかった」。その後、ネパール社会について焦点をあて「通行人が怪我したらどうするのか」「行政は何をやっているのか」「管理が行き届いておらず未成熟な社会だ」という考えもあるかもしれません。「おかしな社会だ」と思う人が多いと思います。
こうした考え方自体はそれ自体で尊重されるべきですね。間違ってもいません。しかしそれは実は「もったいない」考え方です。
上の考え方、感じ方に共通するのは自分の文化、価値観を中心に他文化を判断する考え方です(これを難しい言葉で「自文化中心主義」といいます)。これ自体は否定されることはありませんが、自文化を中心に考えることを繰り返していると新しいものの考え方が生まれるどころかだんだんと「常識」が固定化して、自分と異なる文化を生きる相手を理解することが難しくなっていきます。簡単に言えば、異文化をみて「引いて」しまう。やっぱり自分の常識の方が正しいのだと思い込んでしまう。そのような態度。
つまりこの見方は、せっかく異文化に接触したのに自分の視野を広げたり、相手の文化を理解したりするといったこととは逆の方向に進む危険性があるということです。
では野良犬のドーベルマンをみたときに、自分の常識からかけ離れたものを海外でみたときに「おかしな社会だ」と思うのではない構えにはどのような方向があるでしょうか。
それは自分の文化と相手の文化のどちらをも考え方の基準にせず、まずは相手の文化に関心をもつ構えです。
例えば「野良犬のドーベルマン・・」「ほうほう・・やーばいでしょ!」「危険でしょ」(衝撃。←ここまでは一緒)、「でもなんでこんなのが放置されているの?」「そもそもなぜこんなふうに写真をとったり、先生や友人、通行人は平気でその脇を歩けたりするの?」
「てか写真ではドーベルマンが他の犬とじゃれあっているようだけど」「危険じゃないの?」
ととにかくその状況を簡単に判断せずにその社会に関心を寄せて疑問を重ねてみます。
すると「ドーベルマンって危険じゃないの?」「なぜドーベルマンが噛み付いたりしないのか。社会問題になっていないの?なってないとすればなぜなの?「考えてみたらそういうイメージなだけだったのか」とか。「ドーベルマンはさすがにあれだけど、野良犬がこんなに路上にたくさん『いていい』のはなぜだろう」「保健や行政の考え方ってこちらと違うのかな」とか「お金がないから管理しきれないのか」とか「日本の路上ってネパールからみると静かすぎるのかな」とか「いろいろな人や生き物がいる路上っていうのもあるのか」とか。
色々と考えや視点が広がることが伝わるでしょうか。このように自分の文化を中心に物事を判断したりすることを一旦やめて、文化はそれぞれが何を価値とするかという基準から違うこと、相手の文化に関心を寄せること、こういう構えを文化相対主義といいます。
この構えに立つと少しずつ「ああでもあり、こうでもある」みたいな考え方ができるようになります。そのような考え方は「こうあらねばならない」「こうあるのが普通だ」という常識の息苦しさから私たちを解放してくれます。結果的に生きることが楽になってきます。
しかし自文化を中心にして、相手を知ろうとするまえに安易に相手の文化を判断してしまうとその効果は小さくなります。異文化に接触して衝撃を受けたとき、自分の文化に逃げ込むのではなく、ぜひ自分を開いて他者の文化に関心をもって疑問を重ねてくれると嬉しいなと思います。それこそが「視野を広げる」ということにつながっていきますので。
ブログ終わります!心理と福祉という専門を基礎的な足場にしながら、こうした国際的なセンスを磨くことができるのが本学科の良いところだと思います(思いっきり「手前味噌」ですが笑)。
ネパール調査は苦戦していますが、引き続きがんばります。